この間記事を書いたときはセミが鳴いていたような気がするのに(だって一ヶ月前だもんねごめんね)、いつの間にか鈴虫が鳴くようになりました。
秋の訪れとともに、少しだけ心や時間に余裕ができた、あるいは余裕を作ろうかな、という方も多いのではないでしょうか。
今日は、集団や組織のお話。
みなさんが暮らしている学校のこと、会社のこと、お家のことを思い浮かべながら読んでいただければ幸いです*
記事を書くきっかけ:麹町中学校のこと
きっかけとなったのは、この間カンブリア宮殿で特集されていた麹町中学校。宿題や担任制、期末テストを廃止し、学校のリ・デザインに成功したことで有名な中学校です。
麹町中学校について語り始めるともう止まらなくなってしまいそうなので、尾木ママこと尾木直樹先生が書かれた記事のリンクを張っておきます*
と思ったので、今回はわたしの勤務校はじめ一般的な学校と麹町中学校の違い、つまり「集団の頭寒足熱」ということにフォーカスを当てた記事を書くことにしました。
頭寒足熱って?
風邪が流行りだす時期になると、保健だよりなどでよく見かけることば「頭寒足熱」。
頭寒足熱【ずかんそくねつ】
頭部を冷たく冷やし、足部を暖かくすること。
読んで字の如しという言葉を体現しているような四字熟語ですが、これは足が「第二の心臓」と呼ばれていることに起因しているそう。
足を暖めることで全身の血液の循環がよくなり、温まりすぎるとオーバーヒートして機能が低下してしまう脳を冷ますことにより、体の冷えを防ぎ、さまざまな身体活動を活性化させる効果があると言われています。
実はこの頭寒足熱、人間の健康指標としてだけではなく、健康な集団や組織についても同じことが言えるそうなのです。
頭寒足熱の「ずかん」、小さい頃は「図鑑」のことだと思ってた
(完全にポケモン図鑑の影響)(「そくねつ」が何かは分かってなかった)
「頭寒足熱」な集団とは
頭寒足熱な集団、と聞いてもピンと来ませんが、これは言い換えると「リーダー(=経営者)は冷静」で「部下(=現場)に勢いがある」集団のこと。
集団を引っ張ってゆくリーダーは常に冷静な視点でこれからのことを見据え、的確な指示を通して集団全体を引っ張り、それに続く部下や仲間たちは「やるぞ〜!」という自発的な熱意を持って課題やプロジェクトに取り組むのが、集団が最も元気な状態の1つだそう。
それから、「リーダーが冷めている」場合も頭寒足熱とは言い難い。
仲間が「これやろう!」となっているところに、「えぇ……それはちょっと……前例のないことはやりづらいなあ……」と呟く上司がいたら、おのずとやる気や熱意は冷めていってしまいますもんね……。
「頭寒足熱」な集団のつくり方
そうなると、気になるのは「頭寒足熱な組織」と「頭熱足寒な組織」の違い。
結論から言うと、「どうしてこれやってるの?」という目的や、「長い目で見たときに期待される効果(=上位目標)」が共有できているかいないかの違いです。
たとえば冒頭で示した麹町中学校の場合、「子どもたちが社会の中でよりよく生きてゆけるようにする」という全体の目標を見据えた校長が「校則の廃止」「担任制の廃止」「期末テストの廃止」といったプロジェクトを打ち出し、それに続く他の先生方も全体の目標を認識した上でそれぞれの目標にそれぞれの角度からプロジェクトにアプローチするからこそ、集団に団結力と統一感が生まれるのだろうな、と感じます。
それって、子どもたちのことを思う先生たちが集まる学校なら当たり前なんじゃないの? と思うかもしれないけれど、実はそうでもないんです。
わたしの勤務校が悪い! という例ではなくて、あくまでも先生方の性格と考え方の違いがこんな現場を生むよ、という例として勤務校のお話を。
わたしの勤務校では(もちろん、子どもたちに真正面から向き合う先生方はいるのだけど)、「俺の教育が正しい!」とか「わたしの教え方が一番子どものためになる!」といった先生方が多く、結果的に「あいつ(の考え方)は気に食わないから指示なんて聞かない」という最悪のループに陥っています。
先生とはいえ人間だから「生徒に信頼されたい!」と思う気持ちが生まれるのは分かるけれど、だからと言って個人の目標=全体の目標と捉えていいわけではありません。
「生徒に信頼される先生になること」という一般的な言葉を、「自分が正しいことを示す気持ち」を包むオブラートとして使っている限り、集団は少しも前に進むことはできないからです。
こうやってそれぞれの「目標」が「集団の目標(上位目標)」とすり替わっていくと、現場には「自称リーダー」が溢れかえり、派閥ができ、結果として集団そのもののまとまりが失われて、学校の場合は指導力が下がり始める……なんていうことが起きてしまいます。
こういう例は、学校や職場だけではなく、お家の中でも起こりがちです。
たとえば、
「習い事をさせるけれど、子どもはちっとも続かない」
……これも、ある種の「頭寒足熱」かも。
お母さんやお父さんは子どもを想うからこそ、「わたしたちみたいな苦労はさせたくない!」って思っちゃうし、その気持ちはよく分かる。これからの時代は英語の時代って言われてるし、大学を卒業したら就職できるって時代でもない。
だからこそ、より安定な道を選んでほしいと思うし、とりあえず進学してほしいって思ってしまう。これは、単なる押し付けじゃなくて我が子を思う気持ちからくるものだと思う。
だけど、やっぱり大切なのは「本人」が「自分からやりたい!」って思えることをやる、という経験じゃないかな、と思うのです。
セラミックの包丁だけを使って育った子どもは金属包丁の重さや切れ味を知らず、軽いセラミック包丁に合わせた握り方や食材の掴み方が定着してしまっていることから、金属の包丁を使うときに思わぬ怪我をすることがあると言います。
まとめ
「こうあってほしい」と願うことと、「こうあるべき」という強制の気持ちの境目って、とても薄くて曖昧なものだと思います。
願うものは同じでも、いつの間にか「自分の気持ち」が勝ってしまって「こうあるべき」という伝え方になってしまっていることも。
小さなところからでも、大丈夫。
少しずつ「頭寒足熱」を大切にできたら、明日の世界は少しだけ明るくなるかもしれません*
それでは*