今日のことば
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
白河(松平定信)が行った寛政の改革。
あまりに厳しい引き締め政策に辟易した江戸庶民の「こんな厳しくされたらたまりませんわ、賄賂バチバチでもまだ前の田沼さんのがええですわ」という心を表した句だ。
社会科の教科書にも載っているので、どこかで目にした記憶がある方も多いかもしれない。
濁りかどうかは別にして、現代日本でもこういう気持ちになることが多々ある。
ブラックな職場に辟易して転職したら、前よりもっとブラックになったとか。
思い切って髪型を変えたら、イメージと違って後悔したとか。
めんどくさいと思っていた人間関係を切ったら、それはそれで寂しくなったとか。
だけど、変化前の状態が最善だったというわけでもない。
変化を眺めているだけの人は「ほら、言ったじゃないか」「安易な判断をするから」というけれど、地獄のど真ん中にいる当事者からすればこの人何言ってるんだ状態だったりする。
今まで感じてきた苦しさや辛さがわかってもらえないどころか、それすら「マシ」だったことにされてしまう。ひどい場合は「それが普通」で、おかしいのは「自分自身」だという言葉を突きつけられて、地獄のど真ん中では飽き足らず、地獄のど真ん中の更にどん底にまで突き落とされることだってある。
突き落とされる、と書いたけれど、そういう言葉をかけている側も悪意があるわけじゃない(ことがほとんどだと信じたい)。
変わりたいけど変われない。
あるいは、変わろうとしたけれど失敗した。だから、同じような失敗をして欲しくない。
それぞれが別の地獄にいながら、なんとかして他の地獄で生きる人を支えようとするけれど、互いに余裕がないからうまくいかない。誰が悪いわけでもなくて、本当はお互いのことを思いやる心があるはずなのに、すれ違うばかりで溝が深くなってゆく。
言ってみれば、みんながみんな溺れながらお互いのことを助けようとしている。
そんな場面に出くわした経験はないだろうか。
地獄の中で地獄を選ぶ、という地獄
どれもこれもひどいけど、どれがマシかって言われたらこれ。
だから、他の選択肢よりもマシな「最低」を選ぶことにする。
そんな雰囲気が、社会のあちこちから感じられるように思う。
「どうせまともな選択肢なんてないんでしょ」という、静かな絶望感めいた諦めの念が当たり前になったのは、一体いつ頃からだったのだろう。
どうせ迷うなら、どれもこれも素敵で選べないという迷い方をしたい。そこに、どれもこれもいいけど一長一短なんだよなあ、という感じで「短所」という個性が加わるとなおいい。素敵なだけ、きれいなだけの選択肢しかない世界は、きっといつか息苦しくなってしまうと思うから。
濁り、と表現すると良くないもののように聞こえるが、透明度が高すぎる、つまり澄み渡りすぎている水の中で生き物が暮らすというのは非常にハードルが高いことだったりする。
というのも、濁りや淀みというのは生き物が身を潜めるための「隠れ家」になるからだ。自然界においてはそれがそのまま栄養素となっている場合もあったりして、濁りと言ってもその種類は多種多様。
きれいな川に暮らすことで有名なあの鮎でさえ、生存のためにはある一定の濁り(のようなもの)が必要で、あまりにも綺麗すぎる水の中では暮らしてゆくことができないとか。
人間も同じで、あまり消毒をしすぎたりアレルギーを気にしすぎたりすると、かえって免疫力が低下したりアレルギー反応が強く出たりすることもある、とどこかで聞いたことがある。
それは目に見えることだけではなくて、目に見えないもの、心や気持ちも同じだ。
ある瞬間には正しかったかもしれないことが、いつ、どんなときもずっと正しいとは限らない。こういうときは絶対にこうするべき(異論は認めん)、というのは、なんだか人間味がなくて冷たいような気がしてしまう。
関係ないけど、Twitterでたまに見かける(異論は認める)という文言が好きだ。控えめに言って、大好きだ。
あのあったかさがたまらない。扉開いてます感がたまらなく好き。最初に使った人に全身全霊を投じたお礼を言いたい。素敵な言葉をありがとう!!
完璧じゃないからこそ認め合う
閑話休題。
白河の清きに魚も棲みかねて
もとの濁りの田沼恋しき
この句を詠んだ江戸の皆さんは、きっとあることに気がついたのではないかな、と思う、
その「あること」というのは、俺たちも言うほどまともじゃなかったわということ。
お上のやることにケチをつけまくってみたけれど、よくよく考えてみたら自分たちも結構ガサツだ。近所のあの人に文句を言いまくっていたけれど、自分だって人のことを言えた立場じゃない。
完璧さを求めて互いに高め合うためには、ある程度の寛容さが必要だ。
目標達成のために、お互いにミスをしないか目を光らせ合うことでは本当の意味での高みには到達し得ないように思う。
それよりは、お互いに不十分なところがあることを自覚して、欠点やどうにもならないところを補い合う形で寄り添いながら進んでゆくほうが、人間的にも集団的にもずっと大きく成長できるような気がする。
いい意味で自分はたいしたことのない人間だ(と言うと字面が悪いので「完璧じゃない人間です」くらいのほうがいいかもしれない)と自覚する謙虚さと、個の中に完璧を求めない寛容さがあれば、文字通り「一人では到達できなかった場所」や「みんなで力を合わせたからこそ実現できたこと」を現実にできるのではないのかな、と思う。
まとめ
今日、うまくいかないことがあったあなたへ。
日々、自分の嫌いなところを見つめてしまうあなたへ。
ちょっとだけ深呼吸をして、肩の力、抜いていきませんか。
完璧を求めてきたあの人や、完璧に見えるあの人も、いつか息苦しくなるときが来るかもしれない。もしかしたら、もう既に窒息寸前なのかもしれない。
そんなとき、ここぞとばかりに報復するのではなくて、まあそんなこともありますよねわかります、と支えることができる余裕があったら、何かが変わるかもしれない(し、変わらないかもしれない。人生、プラスがマイナスになって返ってくることもあるから困るけど、まあいっかって考えるとちょっとだけ成長できると思ってる)。
と書いているけれどわたしも完璧な人間ではない。どうしても報復したくなる関わりたくない人はいる。
だけど「わたしが苦手なあの人を支えることのできる別の誰か」がいることもわかっているから、無理にいい人になる必要はない(と言いつつその人が目の前で困ってたら助けちゃうんだろうな、自分のこういうところが好きだったり嫌いだったりする。まさに栄養にも汚れにもなる濁りだ)。
心が求めるちょうどいい具合、というものを敏感に察知できて、常に変化し続けるそのバランスを上手くとってゆけるようになるためには、自分も他人も「許す」気持ちを養わなくちゃな、と思う。
(インドだったと思うけれど、人は誰しも他人に迷惑をかけているのだから誰かの迷惑も許しなさいという意味合いの言葉があった気がするのでまたいつか記事にしたい)
いつか、白河の清さと田沼の濁りを足して2で割ったくらいの人間になれたら良いなあ、と思う。
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき