連日、猛暑が続いています。
原則として運動禁止が呼びかけられる中、夏休みの部活に励んでいる人も多いはず。
だけどその部活、みんながみんな「やりたい!」ってわけじゃないみたい……。
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運動は原則として禁止
運動や労働の環境を評価する方法として、暑さ指数(WBGT(湿球黒球温度):Wet Bulb Globe Tempereture)というものがあります。
これは熱中症を予防することを目的として1954年にアメリカで提案された指標で、ISO等で国際的に規格化された指標でもあるのです。
単位は気温と同じ摂氏度[℃]で示される暑さ指数(WBGT)。
ですが、その値は気温を示しているわけではないことに注意。
暑さ指数は、人体と外気との熱のやりとり(熱収支)に着目した指標で、人体の熱収支に与える影響の大きい ①湿度、 ②日射・輻射(ふくしゃ)など周辺の熱環境、 ③気温の3つを取り入れた指標です。
つまり、「暑さ指数では31℃以上」で運動が原則禁止となっていても、実際の気温は31度ではないということ。
このように、暑さ指数と実際の気温の間には若干の開きがあります。
炎天下や高温下での作業場所や、学校現場では体育の先生はもちろん、運動部の顧問の先生も配慮を有する熱中症。
この指標は天気予報でも使われることが多くなってきたけれど、実際のところ運動禁止などの熱中症予防には繋がっていないのが現状です。
「昔は暑くても耐えた」
熱中症の話になると必ずと言っていいほど出てくるのがこの言葉。
その昔、朝から28℃、日中に40℃近くなるような日が続くなんてことは滅多になかったはず。
「今は水も飲ませてもらえる」と言って「今は昔より楽な環境」だと主張する先生もいますが、はっきり言って昔の夏と今の夏とではあらゆるものが違うのです。
部活指導を長年やっているとか、このやり方で俺は強くなったとか、苦しい状況でやるからこそ強くなるとか。
この考え方こそが、熱中症事故を招く最大のトリガー。
さらに、この手の意見を出す先生方はそれなりに年齢が上であることがほとんど。
つまり、生徒にとっても先生にとっても「反論しづらい人」であることが多いのです。
運動部のジレンマ
各校にいくつかずつ、非常に熱中症リスクの高い部活があったり、そういった指導を行う先生がいらっしゃったりするのが現状。
つい熱が入ってしまう、という先生も多い上に、暗黙の了解が壁となって立ちはだかることもしばしばです。
わたしの勤務校で最も多い暗黙の了解は、以下の通り。
「ラスト」はラストじゃない
類義語:「あと1周」では終わらない
このあたり、怪我をしていても動けるといった指導なんかと通じるところがあるかも。
苦痛を我慢して動くことが美徳とされやすい認識を持つ日本人ならではのジレンマですが、これは「労働過多」「ストレスフル」ないまの日本社会を生き抜く上ではデメリットのほうが多い感覚かもしれません。
いろんなことが昔と違う
その昔、日本が戦後から立ち直り高度経済成長に沸いた時代。
努力すればした分だけ、いやそれ以上の結果が返ってきた時代です。
長時間労働の対価は支払われていたし、ボーナスや年金も(今と比べれば)きっちり支払われていたことは事実です。
「負の記憶に負けない」「辛さに耐える」といったレジリエンスが、社会に活気を取り戻すために必要不可欠なものであったことは間違いありません。
だけどやっぱり、今と昔は違う。
労働に見合う対価が得られる時代ではなくなってきているし、「生きるために働く」という言葉が「働くために生きる」と同意語になりつつある。
そんな時代を生きてゆかなければならない生徒たちに、部活動や学校活動を通して「辛いとか言うな」「甘えだ、負けだ」「やる前から無理だと言うな」と言った考え方を強いるのは、ちょっと違うなと感じるのです。
大きなところで言うと「地球環境」が変化し、働き方をはじめとした社会の姿も変わり、それに伴ってわたしたち個人のあり方も変わりつつある。
「変化の時代」を生きる
これからの時代は、いろんな基準を変えていかなければいけない、いわゆる変化の時代。
いろんな価値観が混ざり合う過渡期の今だからこそ、「情報や価値観を正しく見極める力」や「自分でNOと言う力」がなにより大切になってくると思うのです。
インターネットでいつでも世界中の知恵に触れられる反面、情報に惑わされることも増えました。価値観が多様化し少しだけ世界が柔軟になったぶん、考慮しなければならないことも争いのタネも増えました。
それに伴って悩みの次元も飛躍的に上がったし、これから先、うつ病などの心の不調は「風邪」のように誰もが経験するものになるはずです。
そういう「いま」を生きる上で、年長者の意見を参考にするのは大切だけど、過度な追従はNG。
昔の価値観と今の環境、価値観の間に少なからず「差」があるからです。
大切なのはその差をほったらかしにするのではなくて、スロープのようになめらかにつなぐこと。
場の空気、実は存在しないのかも。
熱中症の事案もそうですが、暑くて辛いと言ったら(=自分の意思表示をしたら)、頑張っているみんなが気を悪くしそう(=場の空気を乱しちゃうのでは……)と考えがちですが、必ずしもそうとは限りません。
みんなが「場の空気……」と考えていて、存在しないはずの『場の空気』を作り出していることも案外多いもの。
というのも、「集団」というのは「個人」が集まってできたものだから。
「個人」が集まって「集団」になる
学校や会社の中で生きていると、だんだん「自分」が消えてなくなってゆくような気持ちになること、ありませんか?
もともと大きな集団があって、そこからいくつかのグループができて、最終的に「わたし」ができるわけではありません。
最初に「わたし」がいて、何人かのグループができて、いつしか社会に出てたくさんの人と共に生きるようになってゆくはずです。
「場の空気」に惑わされないために
ちょっとドライかもしれないけれど、あなたがいまいる場所で、あるいは集団の中で、自分のことを大切にできない場合は思い切って距離を置いてみるのがおすすめ。
たとえば、こんな感じ。
- 趣味の時間を確保する
- (早帰りできるなら)いつもより早く帰る
- 飲み会、付き合いのイベントを思い切って切る
最初は抵抗があるかもしれないけれど、いざ実行に移してみると案外普通です。
わたしの経験から言うと、「この人は飲み会に参加しない」「はっきりと自己主張する」という印象をいい意味で定着させることができると、その後の生活がぐっと楽になります。
いちばん驚いたのは「わたしも今日はちょっと」「じつは僕も同じことを考えていまして」と飲み会やイベントを断ったり、意見をサポートしてくれる人が急激に増えたこと。
もしかしたら思い当たる節があるかもしれませんが、みんな口に出さないだけで「無駄だなあ……」と思っている人がほとんどだったんだね……。
自分だけが特殊な思考回路を持っていて、こんなこと考えてるのは自分だけかも……ってことは滅多にないらしいという自信(?)も生まれました。
大丈夫。大体みんな考えてることは同じです。人間だもの!!
熱中症の話を例にしましたが、これに限らず教育に携わる者として本当の意味での「人間力」や「生きる力」を伸ばせる環境・関係づくりを考えなければな……と思います。
みんながみんなで考えること
こういった課題は、1人だけが行動してもなかなか変わりづらいもの。
みんなが自分自身のこととして考えて、みんなで意見を出し合うことが大切です。
「昔はこうだった」「みんなこうしてる」から抜け出して、「今の私はこう思う」を伝えること、そして伝えられること。
これも、1つの信頼関係だと思います。
この人とわたしは違うなということが分かるというのも、大切な「理解」の形ではないでしょうか。
自分も周りも大切にするための「きっかけ」は、あなたの中にもあるはずです。
そのきっかけを行動として、あるいは言葉として発信することで、変えることのできる未来があるかもしれませんよ。
いままでの「普通」を超えるのはちょっと勇気がいることだけど、少しずつで大丈夫。
あなたとあなたを支える人たちの明日が、今日よりちょっとだけ幸せな1日となりますように!
それでは*