読書

老子と読む ヘッセ「シッダールタ」

伊佐奈 瑛
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2025年5月のベストブック「老子」。

老子との出会いをきっかけに、ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」を読み直したところ、道教とのつながりを発見!

時間をかけて読み込んでいきたいなと思うので、備忘録も兼ねて「シッダールタ」についての記事を書いてみました。

「シッダールタ」とは

世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうること

ーヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」

ヘルマン・ヘッセという名前を聞いて、真っ先に思い浮かべたのが「少年の日の思い出」という人も多いのではないでしょうか。

伊佐奈 瑛
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エーミールの「そうかそうか、つまり君はそういうやつだったんだな」は名台詞

今回紹介する「シッダールタ」もヘッセの名作。この作品を書き上げるために、ヘッセ自身も断食や祈りを経験したといいます。

ことばと学びと真理を巡る物語

物語の中で、シッダールタは真理を求めて旅をします。途中、仏陀と出会いその教えに触れるものの、シッダールタは受け入れることができません。

伊佐奈 瑛
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親友のゴーヴィンダは仏陀の弟子になるんだよね

友と別れたシッダールタは、その後美しき師匠:カマーラのもとで様々なことを学び、堕落と煩悩を経験します。

彼が最後に師匠とするのが、渡し守ヴァステーヴァと「川」そのものでした。

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ここで重要になってくるのが「ことば」の存在!

なにかを学び、なにかを知るためには「ことば」が欠かせません。

誰かに教えを乞うにしても、その人が知っていることを「ことば」にしてもらえなければ知識を得ることはできないからです。

しかし、シッダールタは「ことばで知恵を教えることはできない」という悟りに到達します。

加えて、探り求めるという行為そのものを断ち切らない限り、悟りに到達することはできない、ということにも気づきます。

その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めるものだけを考え、ひとつの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものも見いだすことができず、何ものをも心のなかに受け入れることができない、ということになりやすい。

ーヘッセ「シッダールタ」

言葉にした途端、抜け落ちる概念や真理がある、という考え方は「認識が世界を作り出す」というカント哲学に通じる部分があるように思います。

2025年の購入本として紹介した「ことばと文化」を一緒に読むのもおすすめ!

さぐり求めることと、見いだすこと

シッダールタが重視するのは「見いだす」こと。

たったひとつの目標に固執するのが「さぐり求める」ことだとすると、「見いだす」ことは自由であり、心を開いており、目標を持たぬことである、と言います。

伊佐奈 瑛
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このあたりは、わたしもまだまだ読み込みが必要なところ🤔

目標を持たずに、というところに掴めるようで掴めていない感覚が残っているので、老子ショーペンハウアーを読みながらじっくり考えていきたいと思っています。

インド哲学がテーマかと思いきや……

「シッダールタ」とは釈迦の出家以前の名。

ヘッセ「シッダールタ」はインド哲学の本だろうと思って読んだのですが、最近「老子」を読んで気がついたことがありました。

伊佐奈 瑛
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シッダールタ、インド哲学より道教の教えのほうが近いんじゃない……?

そう思って「老子」と「シッダールタ」を読み比べてみたところ、やはりヘッセ「シッダールタ」には道教の教えや考え方があちこちに散りばめられていることが判明。

全部を引用するとキリがないので、ひとつだけ引用するとこんな感じ:

柔は剛より強く、水は岩より強く……

ーヘッセ「シッダールタ」

ヘッセ自身、1921年にロマン・ロランに宛てた手紙の中で「老子は私にとって長いこと、私の知っているなかで、最も賢明で最も慰めに満ちた存在です」と語っていることから考えても「シッダールタ」が道教の影響を受けていることは間違いないようです。

登場人物の名前について

「シッダールタ」の登場人物は、すべてインド神話に由来する名前がつけられています。

たとえば渡し守ヴァステーヴァはヴィシュヌの第8番目の化身・クリシュナの父の名前で、カマーラは愛の神カーマデーヴァに由来する名前。シッダールタの友人・ゴーヴィンダはクリシュナの別名です。

だからこそ、最初に読んだときはインド哲学の話なんだなあと感じたのですが、ヘッセは友人にあてた書簡の中でこんな話をしています。

私の聖人はインド的な衣装を着せられているが、彼の知恵はゴータマよりも老子に近い。

「シッダールタ」の結末はインド的というよりむしろほとんど道家的である。

ヘッセの他の作品との違いは?

「善悪の線引」がされていないことが「シッダールタ」の特徴。

たとえば「デミアン」でははっきりと「善」と「悪」が対立しているのですが、「シッダールタ」の物語は「善も悪も受け入れる」という考え方に支えられています。

いいこともわるいことも、世界中のあらゆるものを受け入れるという思想はまさに老子の思想そのもの。

キリスト教の「汝の隣人を愛せ」やインドの格言「汝はそれである」も同じ内容を指しているので絶対に老子とは言い切れないけれど、少なくとも「すべてをありのまま受け入れる」というあり方は「シッダールタ」がほかのヘッセ作品と一線を画す要素だと思います。

なぜ「ありのままを受け入れる」のか

これは「言葉で表現した途端、真理やそのもの自体のある一定の部分が失われる」からだと考えています。

シッダールタの場合、悟りの境地がどんなものかというのは「いろんなものを区別しないことだよ」と話すことはできますが、重要な意味を持つのはむしろ「悟りに至るまでに彼が歩んできた道のり」の中に溶け込んだ「言葉にならない経験」であり、そこに悟りの真の意味があるように思います。

シッダールタの話を聞いて「そうか、悟りとは区別しないことなのか!」と知った人がいたとしましょう。

その人がありとあらゆるものを区別せず、良いことも悪いこともとりあえず受け入れてみる、という対応をとることができたとしても「なぜ、そうするのか」という点においてはシッダールタとの間に天と地ほどの差があるはず。

伊佐奈 瑛
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カントが言う「定言命法」「仮言命法」の関係性をイメージするとわかりやすいかも!

つまり「シッダールタに悟りだと言われたから区別しない」人の悟りと、経験を持って心の底から「悟り」を知ったシッダールタの悟りの間には、明確な差が生じるということ。

たぶん「悟り」というものも人それぞれ違っていて、だからこそ「これが悟りですよ」と言葉に置き換えることができないのだと思います。

「シッダールタ」を読みながら、考えていること

「悟り」は個人的な問題だから人それぞれ違っていても構わないけれど、これが「平和」という概念になったらどうなるんだろう? ということを考えています。

伊佐奈 瑛
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平和のあり方も人それぞれ。でも、違う考えを持った人がそれぞれの「平和」を実現させるために戦争が起こると考えると……。

「これが平和の定義です」と言葉にしたところで、争いが消えるわけではありません。シッダールタが言う通り「平和の概念」を言葉にした途端、抜け落ちていく「平和」が生まれます。

その平和は、小さな国や少数派の「平和」かもしれないし、あるいは争いに負けた側の「平和」かもしれません。

当たり前ですが、良いことも悪いこともありのままを受け入れるという考え方だけでは、争いに歯止めをかけることができません。大事に取っておいたケーキを目の前で横取りされたら「ちょっと待て!!」となるのと同じです。

あるひとつの思想だけをもって平和を実現することは不可能だけど、どんな思想の中にも必ずヒントとなる視点があるはず……「老子」や「シッダールタ」の教えや物語を軸にする場合、平和への道筋はどんなふうに描けるんだろう? ということを考えています。

2025年は、戦後80年の節目の年。

ヘッセが「シッダールタ」を書き始めたのは、1919年のこと。第一次世界大戦の停戦後まもない時期で、非戦論を唱えたヘッセは母国ドイツから「裏切り者」の烙印を押されて苦しい立場に立たされていました。

ヘッセをはじめ、戦争の時代を生きた人々が残したことばを通じて、ことばにならないものについて考える、そんな1年にしていきたいなと思っています。

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クジラー/YouTuber/教育研究職
クジラーこと伊佐奈瑛です! 文字と鯨(特に鯨骨)が大好き。 興味と好奇心に忠実に、ゆったりと読んで学んで書く日々を楽しんでいます◎
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