岩国市の小学校で行われた「トロッコ問題」の授業がニュースで話題になっています。
線路の先に、1人の人とたくさんの人。あなたの目の前には、トロッコの行き先を変えるレバーが。さあ、どうする?
――というこの思考実験、知っているという人も多いはず。
今日は、トロッコ問題と学校のあり方についてのお話です。
トロッコ問題って?
ニュースでも話題のトロッコ問題。これは思考実験の一種で、内容は以下の通り。
「暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、電車の進路を変えて退避線に入れば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。どうすべきか?」
……つまり「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題である。※(電車は止められず、線路上の人たちは逃げられない状況とする)
トーマス・カスカート 「『正義』は決められるのか?」 より
2009年にハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『白熱教室』 で取り上げられたことが、日本で広く知られるきっかけになりました。
大切なのは、トロッコ問題は「5人殺すか、1人殺すか」を問う問題ではなく、状況や条件によって人間の判断にぶれが生じること、それゆえ絶対的な正義はないということを示す問題だということです。
ニュースで問題では、トロッコ問題を授業で採用したことに対して命の選択を迫る授業だ、いや適切な授業だ、と世論を二分する大議論となっています。
小学校での出題の仕方
さて、ニュースで問題となっている議論に踏み込む前に「岩国市の小学校で、トロッコ問題がどんな形で出題されたの?」ということについて触れたいと思います。
プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。
(中略)選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
2019/10/1 毎日新聞
「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」岩国の小中学校が保護者に謝罪」より
トロッコ問題に限らず、思考実験は「問題を通じて何を考えるか?」が大切になってきます。単純に「5人が死ぬ」「1人が死ぬ」という条件を与えて、「どっちを選びますか?」という極限状況下での判断を問う問題ではないことに注意。
「この1人が極悪犯罪を犯した人だとしたら?」とか「逆に、あなたの親友だとしたら?」とか、そういった条件下で「あっ、それだと違う判断になるな……」と思う自分に気付いて、「自分自身の判断の曖昧さ」や「正義の不安定さ」といったものを体験的に知るのが本来のトロッコ問題のあり方ではないかな? と感じます。(※あくまでもわたしの解釈ですが)
だから、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いなら、トロッコ問題以外の題材を使うほうが良かったんじゃないかな(少なくともわたしだったら選ばない)と思います。
わたしが高専&大学院の講義「技術者倫理」でトロッコ問題が取り上げられたときは、「5人があなたと同じ技術者だったら?」「1人が市民だったら?」という条件の場合での討論も行いました。
さて、岩国市のトロッコ問題に戻りましょう。
記事にあるような問い方だと、『ただ「死ぬ人数」を問うだけの問題』と受け取られる可能性がある上、トロッコ問題は命を扱うテーマだということをふまえて、担当の先生は準備の段階で生徒に誤解させない授業進行をしなきゃな、というところまで考える必要があったんじゃないかな、と思います。
特に、いろんな考え方があって、いろんな視点から討論しあうことが大切な思考実験において、最初から答えを二者択一に絞ってしまったのは明らかな間違い。
何でもかんでもダメ! もダメ
難しいのがこれ。何でもかんでもダメではダメというところなのです。
恐ろしいものだから、子どもに見せたくないものだから遠ざける。
前回の記事でもちらりと載せたように、子ども用の包丁やセラミック包丁しか使ったことのない子どもは、金属包丁の危険性を知らずに育ちます。
一番恐れるべきは、本来であれば恐れるべき危険を知らないことではないかなと思うのです。
子どもを大切に思うからこそ、危険なものや社会の不条理からできるだけ遠ざけてあげたい、という気持ちはとても良くわかります。
ですが、人はいつか一人で立って、ひとりで生きてゆかなければならないもの。
多くの場合、親は子どもよりもずっと早くに寿命が尽きてしまいます。子どもが死ぬまで、ずっとそばにいて守ってあげることはできません。
だからこそ、むやみに「ダメ!」と批判するのではなく、子どもを取り巻く保護者と教員がともに「生きてゆくための経験」「生き抜くための知識」を与え成長を見守ることが大切じゃないかな、と感じます。
学校も変わらなくちゃいけない
もちろん、変わらなければならないのは保護者だけではありません。
岩国市の小学校の「疑問の声が上がったからすぐ謝罪」という対応には、「保護者からのクレームが怖い」と怯えつつ教育活動をしている現場の姿が浮き彫りになっているように思います。
謝罪自体が悪いことではなくて、学校にポリシーがあるのなら「この授業はこういう意図があってやったんです!」と説明することができたはず。
この小学校に限らず、あらゆる学校からポリシーが抜け落ち、教員には指導力がなくなり始めているというのが、現在高等学校で教師として働いているわたしの正直な感想です。
一人じゃ組織は変えられないけれど、一人でもできることから初めてみよう、という小さな一歩がこのブログだったり。ずっと気を張りっぱなしじゃしんどいので、美味しいものの話したり本の話したり。
ごめんなさい話がめちゃくちゃ逸れました。元に戻しましょう。
教員の指導力低下についてですが、教えることはできても「子どもにいい経験をさせ、将来迷わないような知識を授ける」ことができる先生がめっきり減ったように思います。
よく言われることだけど、真面目な先生ばかりがやめていき、手を抜くのがうまい(というと失礼だけど)先生ばかりが生き残るのが、今の学校現場です。
工業教育の分野でもこの問題は深刻化していて、最近では
- 高等学校在学中に実習助手を受験して
- 卒業後実習助手として採用
- 実務経験を積みながら夜間大学に通う
- 教員免許を取得
- 教諭昇格
という道をたどって先生になる人が増えています。
このルートでも先生にはなれるけれど、やっぱり大学で本格的な研究や学会発表を経験しながら工学を学んできた人とは知識に天と地ほどの差ができます。
早いうちから現場に触れられるから教育力が身につくでしょ? というのも、前述したように見習える大人がごく少数という環境ではちょっと疑問。というか正直かなり疑問。
結果、式典や説明会にジャージで参加、授業中にゲームをする、板書ミスを指摘した生徒に逆ギレする等、問題行為が目立つ教員が増えてきているのは事実です。
そういう先生方が放り出した仕事を他の先生が受け持ったり、クレーム応対に追われたりするのも、「まともな先生が辞めていく」環境を作っている一因かもしれません。
こんな表情して華麗にスルー。本音と建前は大事って言われたし。即時実行えらい!!
もちろん、とんでもなく素敵な先生方がいることも、めちゃくちゃに素敵な学校があることも忘れないで!
この一例として、前回記事でカンブリア宮殿にも特集された「千代田区立麹町中学校」のことを取り上げていますのでぜひ。
まとめ
岩国市の小学校におけるトロッコ問題の授業から、「教員」「保護者」の視点からいろいろなことを書きましたが、「誰が悪かったか」ということが問題ではありません。
子どもを思う気持ちはみんな一緒。
批判に対して反射的に謝罪するのではなく、教育活動全体を貫く「大きな柱(=目標、ポリシー)」を決めて教育活動を行うこと、そして保護者の不安に対して丁寧に説明をする姿勢が、これからの学校をより良くするヒントになるのでは、と思います。
そうなれば、最後のほうに書いたような「今は最低な先生」がいたとしても、いずれ彼らも自分から「変わらなきゃな」と思う日が来るはずです。
失敗の経験にも学び、反省を次のアクションにつなげることで組織として強くなる、そんなふうに「失敗を成長の過程」として捉える視点が社会全体に広まればいいな、と思います。
さあ、あなたの欠点や苦い経験、最近の失敗を思い返してみてください。
もしかしたら、それはまだ見ぬ長所や、未来に待つ大きな成功の種かもしれませんよ*
それでは*