水戸の児相で、保護が決定した子供の親が大暴れしたというニュースがありました。
多くの人にとって「児童相談所」は身近で遠い場所かもしれませんが、わたしの感覚的には既に身近なものになりつつあるという気がするのです。
ニュースでは保護決定後の親が話題となりましたが、今回の記事では児童相談所が保護をする前の段階に焦点を当てて「教育現場のいま」を見つめたいと思います。
児相=特別なこと、ではない
高等学校に勤務していますが、児童相談所から学校に通う子供たちはとても多いです。
もっとも多いパターンは、「高等学校に上がってから児童相談所に保護される」というもの。
中学校のころは様々な理由から「親元で暮らした方がいい」とされていたのが、高等学校に上がった途端DVや育児放棄(ネグレクト)が明らかになる、というパターンが多いです。
このあたりは学校によりけりだと思いますが、わたしの勤務校では平均して各学級に1人以上、児童相談所から通う生徒がいます。
様々な理由を抱えた子どもたちが集まる場所、それが学校。
少し前までは「いじめ」として子どもと子どもの関係性が注目されていましたが、実はいま、子どもたちを追い詰めているのは大人、つまり先生という事例も多いのです。
苦労をしたことがない、という先生
普通に大学まで進んで先生になった、あるいはなろうとしている人はたくさんいるはずです。
授業中には教科書にペン、ノートを使って勉強をして、お昼休みになったら友達と他愛のない話をしながらご飯を食べる。
部活もサークルも楽しかったし、汗をかいたあとのお風呂は最高だった。受験勉強は苦しかったけど、やればなんとかなるということを学ぶいい機会になった。
これ、当たり前じゃないの? と思うような事例ですが、全然当たり前じゃありません。
これが当たり前だと思えるならば、あなたは(意識したことはないかもだけど)実は相当恵まれていると考えたほうが良いでしょう。
授業中に、1人だけ教科書を持ってこない生徒がいる。
昼休みになっても、ご飯を食べない生徒がいる。
あるいは、暑い日なのに水も買わない生徒がいる。
部活を休む理由が「買い出しを頼まれているから」だと言うものの、その内容がとても1人では運びきれない量(2L飲料5本に米10kg、その他冷凍食品やお菓子諸々)だということも珍しくないし、生活費と称してアルバイト代を徴収される(もちろん普通ではない額)、家に帰ってから一言も口を利かない(親が出ていってしまう)という例もあるのです。
子供は大人の姿に学ぶ
先生なら誰しも、「予定通りに授業をすすめること」と「学級の空気を乱さないこと(=分裂させないように気をつけること)」について、頭の中で考えているはず。
それが「考えているだけ」の状態、つまり前提から「なんとしてでも実行しなければならないこと」、すなわち必須条件に格上げされると一気に視界が狭くなります。
集団が優先されがちな日本社会において、みんながやっているからあなたもやるべきという思考は、先生のみならず大人ならば誰でも「大事だ」と思ったことがはず。
『あ、この先生「場の空気」めっちゃ大事にする人だって分かるし』
『違うことすると浮いてるって言う先生だから、違うって言いづらい』
『先生を評価する先生もいるしね』
『俺たちも成績下げられたくないし、お互いが気を使うのがwin-winってやつでしょ』
高等学校基準のお話になってしまいますが、高校ともなると生徒が先生に気を遣うのは当たり前になり、その理由も先生だって他の先生に気を遣っているからというのが大多数を占めるようになります。
この大人の姿が元になっている判断基準というのはえらく強力です。家族に辛く当たられている子どもについても、先生の顔色をうかがって学級を形成する子どもについても、めちゃくちゃを軽く通り越してるぐらいには強力な規範になりうるのです。
例えば前者の場合、(※これはあくまでも一例ですが)家でも利己的な大人の姿に触れ、学校でもこちらの状況なんてろくに聞かずに「みんなこうしてるでしょ」「ときには我慢も必要なの」「優先順位を考えろ」と聞かされたせいで、大人はみんな自分のことしか考えてないんだと感じ、相談できる相手を失い孤立を深める場合もあります。
もっと恐ろしいのは、後者。
家庭環境に問題がない、と言うよりは「親の言う通りに生きてきた」というタイプの生徒が陥りやすい落とし穴が「先生もそうしているでしょ?」という言葉。
いやいや、高校生にもなってそれはないでしょと思うかもしれませんが、とっても多いのです。生徒が自分で考えることを放棄したのではなく、時と場合によって(学校や家庭によっては先生(大人)の気分によってというのもあったりする)判断基準が変化しすぎて「どうしたらいいんだ……」と考えた結果、ここは判断する側の大人の言動に従おう! という決定を下している場合がほとんどです。
もしかしたら経験したことがある人もいらっしゃるかもしれませんが、目の前の人の機嫌がめちゃくちゃ悪いとき、「あっこれはまずいやつや……」と距離を置いて様子見をし、できるだけ刺激しないように反論を控える、あの感覚に似ているかも。
大人に気を遣う子どもが増えている
このように、教育現場や家庭に余裕がなくなると規則・規律に乱れが生まれ、「いつキレるかわからない大人」の姿を通してその雰囲気が子どもたちに伝わり、みんなとは違う行動を取る仲間、つまり大人を怒らせそうな仲間に敵意を向けるようになります。
本当は相手には相手の理由があることも分かっているけれど、自分たちだって必死に耐えている。
こんな意見が大多数を占めるようになると、自分たちとは違う行動を取る仲間を「ハブる」ように。
つまり「あの子にもなんか事情があるんだろうな……」というのが分かっていても、最初に来る感情が「共感」ではなく「反感」「不満」に化けることがあるのです。
もちろん、すべての学校・すべてのケースに言えることではありませんが、今回示した例のように大人に過剰に気を遣う子どもは年々増えているように思います。
こうして「違いを受け入れない集団」が形成されてゆくと、知らず知らずのうちに世界は狭く、生きづらいものになってしまう。
ちょっとだけ、見方を変えて見てみよう
今回は、話題のニュースを「ニュースには取り上げられない、あるいは取り上げられる前の教育現場のいま」から掘り下げてみました。
大きなニュースになる前の学校、子どもたちの問題となると
「高校生なら自分の頭で考えられるでしょ」
「周りに助けを求めることもできたはず」
「大人が気付くべき」
といった言葉が噴出しがちですが、ここで少し深呼吸。
教育時事、ひいては子どもたちを取り巻く問題は、すべて大人たちの問題に繋がっています。
さあ、あなたの周りをそっと眺めてみてください。
ただのニュースとして遠い場所から眺ていることも、ちょっと見方を変えて自分のこととして考えてみると感じ方も変わってくるかもしれませんよ。