突然ですが、100万円あったらあなたは何をしますか?
貯金。奨学金の返済。車を買う。欲しかったあれやこれを買う。
人によって使いみちはいろいろですが、今日はこの100万円の使いみちを通してわたしがビアガーデンで出会ったフィリピンの留学生から教わったことを通して、「どうせむり」をどうにかするヒントについてお話したいと思います。
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ビアガーデンでの出会い
大学院時代、当時住んでいた地域で開催されたビアガーデンに行ったときのこと。
わたしは、偶然ひとりの留学生と隣り合わせました。
聞けば、フィリピンからやってきたとのこと。社会系の分野を専攻しているという彼女の語り口は聡明そのもの。
「母国を良くするヒントを日本に学びに来た」という話を聞くうちにすっかり仲良くなり、空気が和らいだころに、彼女はふと真剣な顔をしてわたしにこんな質問を投げかけてきました。
日本人の立場から、フィリピンの人をサポートするいちばん簡単な方法ってなんだと思いますか?
技術は貧しさの解消法にはならない
わたしの専攻が工学だったこともあり、わたしは
と答えました。
すると、彼女は難しい顔をして、はっきりと首を振ってからこう言いました。
たしかに、技術協力はありがたいことです。
だけど、いくら優秀な機械があっても、最新の技術を教えてもらっても、わたしたちの国にはそれを十分に維持するだけの環境がないんです。お金がなくて働かなくちゃいけない人が多いから。
日本人の当たり前は、フィリピン人にとってはすごいことだったりするんです。
それにね、と言ってから、彼女はこう付け加えました。
そういった学びで救われる人って、実はもともと裕福な人が多いの。難しいことを理解できる人は、そういう勉強をする余裕がある人だから。
みんな、学ぶ意志がないんじゃなくて学ぶためのお金がないんです。そういう人は働くしかないから、どんどん学びの道から離れていく。
あと、これは日本に限らずなんだけど、支援の内容がフィリピンの人が望んでるものと噛み合ってなかったりする。気持ちはめちゃくちゃありがたいんだけどそうじゃない、っていうか。わがままなんだけどね。
この「支援の内容が現地の人が望んでるものと噛み合ってなかったりする」という部分、長い間「イメージ的には分かる」という状態だったのですが、つい最近「エッセンシャル思考」という本の中でとても良い事例に出会いました。
スタンフォード大学の事例
スタンフォード大学の学生だったジェーン・チェンは、「低価格デザインを考える」という授業に参加していた。そのときのテーマは「保育器」。
「400万人もの未熟児が、生後28日以内に亡くなっています。安定した体温を保てるだけの脂肪がないからです」
チェンとクラスメイトたちは、問題の本質を知るためネパールに飛んだ。現地を取材してわかったのは、新生児の8割が病院でなく、自宅で生まれているという事実だった。ネパールの村落は電気が通っていないことが多く、たとえ保育器があっても使えない。
つまり本当の課題は、従来の保育器を安くすることではなく、電気を使わない保育器を開発することだったのだ。
こういうこと、実は珍しいことじゃないみたい。
そういう支援にふれると、「気持ちはありがたいんだけど……」という思いはもちろんあるんだけど、それ以上に「孤独感」を感じるんだと彼女は付け加えました。
「あ、わたしの国のこと分かってくれてないんだな」という思いはいつしか「わたしの国に興味なんてないんだな」という気持ちに変わり、時として「そんな支援ならいらない!」という反感を招いてしまうことも。
それじゃどうしたらいいんだろう……と悩みかけたところで、彼女が提示したのは思ってもみないような答えでした。
答えは「移住する」こと
「これはわたし個人の考えだけど」とほほえみながら、彼女はこう言いました。
100万円持って、フィリピンに移住する。そこでお家を建てて、フィリピンの人を雇うだけで、救える人がいると思うんだ。
わたしは、昔からずっとこう思ってた。豊かな国の人が、彼らの基準で言う「わずかばかりのお金」を持って、フィリピンに来てくれたら良いのにって。フィリピンの景観も整うだろうし、わたしたちは仕事ももらえる。どんなに幸せだろうって、ずっと思ってた。
彼らには彼らの生活があるし、住むってなるとまた話が別だから、実際のところは難しいんだけどね。もちろん、大きなお金をかけた国単位の支援も大事だけれど、いちばん苦しんでいる人たちに届く支援をしようって思ったら、やっぱり「ホンモノ」を知るしかないし、知ってもらうしかない。
フィリピン、いい国だよ。だからみんなにちゃんと知ってもらいたいし、みんなでもっといい国にできたらなって思ってる。よかったら、あなたも、いつか遊びに来てね。
まったく考えつかない答えでした。というか、たぶん日本で暮らしていたら絶対に思いつかない答えだと思う。
判断の基準と、その基準が適応できる範囲がめちゃくちゃ狭かった。
「考えたこともない」「分かるわけない」というところに、「イメージで知ったつもりになってた」自分を感じて反省。
自分の基準と周りの基準は違う
決して少なくはないけれど、なにかをするには不十分な額というのが100万円という額だと思っていたし、わたしは一生日本から出ることはないだろうと思っていました。
だけど、ひとつの世界で生きていればひとつの基準しか持たなくていいってわけじゃないし、住む世界や活躍する場所が変わったらものごとの価値基準がガラリと変わることもある。
100万円の価値が変わるように、自分では「たいしたことない」って思っている特技が実はとんでもない才能だったり、「わたしこの分野ならめちゃくちゃ詳しいよ!」と思っていた知識が大したことなかったという経験をしたこと、ありませんか?
「好きだけどプロじゃないし」「やってみたいけど自信ないし」「どうせだめだろうな」と思うものがあるなら、以下の2つのことを大切にしてみてください。
1|とりあえず「いま頭の中に浮かんだこと」を全力でやってみる
とにかく、やらないことにははじまらない。9割以上「やりたい!」と思うことがあるなら、思い切ってはじめてしてしまいましょう!
音楽だったら、音楽に思い切り打ち込んで楽器をかき鳴らしてください。読書なら、もうしばらく文字は見たくないと思うくらい本を読み漁ってください。
ちょっと背伸びして偏差値高い学校に行きたいと思っているなら、とりあえず学校を見に行ってみてください。将来の夢がミュージシャンなら、夏休みの間に1つ、曲を作ってWebで発表してみてください。
大切なのは、闇雲に量をこなすことじゃなくて自分以外の基準を増やすこと。そのためには、「現場」「ほんもの」を知らなければなりません。
そのためには、ほんものを自分の目で見るということがなによりも大事になってきます。
2|自分で見て、聞いて、考える機会を増やす
Twitterやネットがあるから、家にいても勉強はできるし、世の中のことだってある程度分かる。
だからこそ、自分で経験するという機会が少なくなっていると思うのです。
どんなに詳しくても、誰かの経験がすべて自分の経験値になることはありません。「聞いて知ってる」と「(実際に)見て知ってる」の間には、天と地ほどの差があるように思います。
自分からいろんなものを見て聞いて、というとちょっと難しそうに聞こえるけれど、たとえば前から行きたかったカフェに行ってみるなんて小さなことでも、世界はずいぶん変わるはず!
オリジナルの経験を武器にしよう!
他の人だったらどうとも思わないかもしれないくらい小さなことであっても、大きく心が動いたのなら、それはあなたにとって大切な経験。
大きくて映える経験である必要はありません。
まだまだ夏は始まったばかり。
やりたいと思っていてやれずじまいだったあれやこれ、もしかしたらいまがはじめどきかもしれませんよ*
それでは*