さて、前回5000字オーバーの考察記事を爆誕させた瑛(@IknowAkeyA)ですが、今回の記事も長くなりそうな予感……!
今回の主人公は、レイ・ブラッドベリ「華氏451度」の中でモンターグの前に立ちはだかるラスボス的存在:ベイティー隊長。
本を焼き払うのが仕事のはずなのに、この人めっちゃ本の知識が豊富なんですね……それに前回の記事で触れた「思考」を手放していない数少ない人間の一人であることは間違いありません。
ということで早速、ベイティー隊長について考えを巡らせてゆきたいと思います◎
記憶する側の人間になれた「はず」のベイティー
しっかり読み込んでいくと、この人わりと冒頭から怪しいそぶりを見せてるんですよね。
機械猟犬に嫌われてる、先月も二回唸り声をあげられたと文句を言うモンターグに、ベイティーは隊長らしく「やましいことでもあるのか?」と尋ねます。
ここまでは別に不思議でもなんでもないのですが、問題は次のシーン。
ベイティーは揺るぎない目で(モンターグのことを)見つめていたが、やがて口を開き、声をひそめて笑いだした。
初見ならば、この時点で考えられる理由は
- モンターグが本に手を出すんじゃないかと予想して、ばかなやつだと笑っている。
の一つだけですが、一度読破した後、つまり「ベイティーは死にたがっている」という情報を手に入れた状態で再読すると、
- ようやく俺を殺してくれる人間が現れたかもしれないと思って笑っている。
という可能性が加わります。
ベイティー自身の言葉を借りるなら、一見すると迷いのない人間に見えるベイティーだけど実は彼は迷子になってるという感じだよね。
作中で、ベイティーはモンターグにこんなことを言っています。
本はなにもいってないぞ!(中略)どれもこれも、駆けずり回って星の光を消し、太陽の輝きを失わせるものばかりだ。お前は迷子になるだけだぞ。
大事なのは、本は直接答えを与えてくれるものではないというところ。答えは迷子になりながら自分で考えて手に入れるものなのです。
だけど、ベイティーは自ら考えることをせず、本の中に答えを求めてしまったのでずっと迷子のままだったというわけです。
答えが見つからなかった絶望は「もしかしたら救われる(答えが見つかる)かもしれない」と思ったからこそ深かったのかもしれません。
ベイティー隊長はやっぱり悪党になる考察
まずは、ベイティーはストレートにモンターグを苦しめようとしていただけという考察から。
知識をひけらかしてはいかん、自分は大したことのない人間だということを忘れるなというフェーバー教授の言葉に対抗する姿勢を貫き、モンターグを圧倒するためだけに本から得た知識を使っていると考えるなら、知識を吟味することなく、自分を誇大評価しすぎた結果身を滅ぼしたという結末でも納得することはできます。
「本に手を出した人間を追い詰めるために知識を使うこと」がベイティーの目的だったのなら、たぶんベイティーは死にたいなんて考えないんじゃないかな、と思うのです。
昇火士としてバリバリ仕事する気満々だし、本に手を出してしまった人を追い詰めるのが目的なら、どんな手段を使ってでもモンターグをとらえようとするのが普通です。
もっと言うと、モンターグが「ベイティーは死にたがっていた」という気付きを確信に変えず、ただ「ベイティーは死にたがっていたのかもしれない」という感想にとどめておいてくれたのなら、要するにモンターグが深く考えずにベイティーのうわべの行動だけを見て感情的に判断していたら、この考察も十分あり得た展開だったのですが、実際はそうではありませんでした。
おかしいじゃないか、いくら死にたいからって、武器を持った男を勝手に歩きまわらせて、口をつぐんで生き延びようとするかわりに相手に罵声を浴びせ、からかって、怒り狂わせ、ついには……
作中では、この瞬間に足音が聞こえたためモンターグは考えることをやめてしまいます。
しかし読者であるわたしたちには、考えるための時間は山ほどあります。
モンターグはベイティーの罵声によって怒り狂い、ついにはベイティーを殺してしまいました。
これは、作中でわからないことを突き付けられて機嫌を悪くしたり、いらだったりする人々と全く同じ行動原理。
実際のところベイティーが突き付けてくる言葉は難解で、ほんのちょっと本をかじり読みした程度のモンターグでは到底太刀打ちできないレベルのものばかりでした。
つまり、あと少しだけ考える時間があったのならばモンターグが行き着いたであろう結論、それはベイティーは知識をひけらかしているように見せかけ、いわゆるたいしたことはない人間を演じることで思い通りの結果を得るというモンターグより一枚も二枚も上手だったということだったのです。
ベイティー隊長がめちゃくちゃいい人になる考察
自殺した場合、彼の中にため込まれていた知識はすべて水の泡。誰にも知られることなく、ベイティーとともに幕を下ろすことになります。
ところが、本の価値を知り、さらにその内容を継承しようとする人間に渡すことができたのなら、ベイティーの中に蓄えられた本の記憶はどこかで生き続けることができるはず。
しかし、ベイティー自身は昇火士で、その上隊長という役職付き。
自由気ままに本と向き合ったり、感情のままに朗読大会を挙行したりできるモンターグとは立場が違います。
若かりし頃は、それこそモンターグみたいに本の魅力に取りつかれて上司に反発してそう。完全に想像の域を出ないお話だけど、彼はそこで「正しいことにたどり着くためには、正攻法じゃだめだ」ということを悟ったんじゃないかな……と思います。
いわばルート違いのモンターグ、それがベイティー隊長の立ち位置じゃないかなという印象が強いです。
本の知識=すぐに役立つものではない
これは、華氏451度を読んでいるときにふと思い出した恩師の言葉。
学生時代、クラスメイトが「なんで勉強なんかしなくちゃいけないんですか」と、ごく自然に先生に尋ねたことがありました。
その問いに対する先生の答えが、モンターグとベイティー隊長のルート分岐を決定的なものにした一つの要因かもしれないと思ったので、記しておこうと思います。
勉強に限らず、知識というものはね。いつ役に立つかわからない、そういうものなんですよ。役に立つかどうかわからないけれど、いつか使うかもしれないから学ぶ。知識を手に入れたらすぐに役立つと思っているのなら、勉強なんてしないほうがいい。
本に記されていることが真実ではなくて、それらが読み手自身の記憶や経験と混ざり合うことで初めて「真実」にたどり着ける、そういうものなんじゃないかなと思います。
まとめ
2021年間違いなく一番多く再読した本で、間違いなく最も多くの時間をともに過ごした本、それがレイ・ブラッドベリ「華氏451度」でした。
あらゆる情報が錯そうする世の中では、つい「何が正しいのか」だけを基準に物事を眺めてしまいがち。
「正しさの基準」とは何なのか。
答えのない問いだからこそ、自分の五感をフル活用して、自分で考えて判断を下してゆかなければならないなと感じます。その基準を自分の中から別の誰かの基準に移してしまった瞬間、人は徐々に自分の人生を失ってゆくのかもしれません。
自分を見失いそうになったときに、今のままでいいのか疑問を持ったときに、ぜひ華氏451度の表紙を開いてみてください。
それでは、良い読書ライフを!